『エンドロールには早すぎる』の「こんな」と「あんな」の使い分けが好きという話をしようと思っていたらいつのまにか季節について考えていた
スピッツの『エンドロールには早すぎる』の歌詞に、
こんな当たり前が大事だってことになんで今気づいてんの?
って部分と、
あんな当たり前が大事だってことになんで今気づいてんの?
って部分がありますよね。
似たような歌詞ですが、「こんな」と「あんな」を1曲の中で使い分ける草野マサムネさんが最高だというのは言うまでもないので、ここでは、「こんな」と「あんな」の使い分けを意識すると、間奏で時の流れを感じることができる、という話をします。
Twitterに書くには微妙に文字数が多いのでこっちに書くことにしました。
「こんな」と「あんな」の違いは、自分にとって近くにあるか遠くにあるかで、それは空間的な距離の場合もありますが、この曲の中では、時間的・精神的な距離の違いを表現するために使われていると思います。
実際、「♪こんな当たり前が〜」という歌詞の近くには、
終わりたくないよ スローにして
~二人浜辺を歩いてく 夕陽の赤さに溶けながら
のように、まだ"君"が側にいるような歌詞もあるので、"君"が側にいるという当たり前が、自分のすぐ近くにあると考えられます。
一方で、「♪あんな当たり前が〜」という歌詞の後には、
君のくしゃみが聞きたいよ
という歌詞があり、これは、もう"君"のくしゃみを聞くことはできないということだと思うので、"君"が側にいるような(くしゃみを聞くことができるような)当たり前は、既に自分の近くにはないということになると思います。
おかまいなしにめぐりくる季節が僕を追い越しても
という部分から、もう既に別れてからいくつかの季節を過ごした状態であると考えることもできそうです。
そう考えると、この曲の中では、「世界の果てはここにある」の後の間奏の前後で、だいぶ時が流れていそうです。
ってことを考えると、この曲の間奏ってなんかめちゃくちゃ時の流れを感じさせませんか?僕は感じます。聴いているとめちゃくちゃ時が流れます(実際30秒ぐらい流れます)。
実際どうなのかはわからないけど、「時の流れを感じさせるような間奏」を意識して作ったんじゃなかろうかという想像までできてしまいます。
というわけで、この記事で僕が言いたかったことは、 「こんな」と「あんな」の使い分けを意識すると、間奏で時の流れを感じることができる、ということでした。
で、ここから先は書く予定がなかったけど書いているうちに書きたくなったことです。
「季節が僕を追い越」すというのは、僕が季節より前にいる状態から、僕が季節より後ろにいる状態に変わるということです。この前後というのは、時間的な前後ですね。
これがどういうことなのかを考えてみると、"僕"が季節より前にいる状態というのはちょっと難しいですが、通常あるべきタイミングよりも早く何かをしている状態なのかなと思います。例えが難しいですけど、小学生が高校の勉強をしているとか、そんなイメージです。小学生は小学校の勉強をすべきとまでは言いませんが、ちょっと背伸びしているというか。
これを『エンドロールには早すぎる』の歌詞に当てはめるなら、もしかすると、"僕"は"君"と一緒にいるには若すぎたということなのかもしれません。
気になるけれど 君の過去には 触れないことで 保たれてた
という歌詞からも、"君"は"僕"よりもいろいろな経験をしていそうな感じがします。(年上のお姉さん?大人のお姉さん?)
で、"僕"が季節より後ろにいる状態というのは、"僕"が過去を振り切ることができないまま時だけが流れていっている(たぶん年上のお姉さんも自分の人生を歩んでいる)ことを表していると思います。
という感じで、「こんな」と「あんな」の使い分けを意識すると、間奏で時の流れを感じることができる、ということだけを書くつもりでしたが、 「季節が僕を追い越」すという表現について考えてみると楽しかったので、予定より長く書いてしまいました。季節つながりだと、『アパート』の歌詞もめちゃくちゃ好きなので、気が向いたら何か書きたいです。